金曜日   仕組み小説第二部「再出発」
P8 平成23年3月18日(金)

「止めないでくださいね」
「止めるつもりはないよ。止めたらこの家にも住めなくなるわけだし。こんなまともな生活ができるなんて考えてもみなかったから。君にも感謝している」
「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしい。小説の方は書けそうですか?」
「小説は……。しばらく無理じゃないかなあ。書画骨董の勉強の方が先だから」
「書く気がなくなったわけではないんでしょう?」
「まあ、今はちょっと意欲がなえていることは間違いない」
「私のせいですか?」
「そうだと言ったら?」
「………」
「幸せすぎるんだと思う」
「葉子さんの方が良かったんですね、小説にとっては」
「そうせっつかないで、そのうちまたよみがえってくるかもしれないから」
 紀子はそこで会話を打ち切って、出かける準備に取りかかった。弓彦は紀子の内に彼の小説に対する期待感がどの程度あるのか、測りかねていた。彼にしてみれば生活が安定すればとりあえずはそれで良かったわけだし、光の体験によって平凡な生活の場に出てくることができ、思いもかけない新生活が始まってしまったとあっては、精神の歪みをつむぎ出すような小説は、縁の遠いものに感じられるようになってしまっていたのだった。
「今日は先に行ってください、あなた」
「どうして?」
「今日は洗濯してから行きますから」
「何か気にさわることを言ったかな?」
「いいえ、そうではないんです。そろそろ別々に出かけた方がいいような気がしてきているんです。ご近所の目がちょっと気にもなって。町内会のこともあるし」
「何か嫌なことを言われたわけ?」
「やきもちとかあてこすりのようなもので、特別意地の悪いものではありません。でもこれから長くお付き合いしなければならなくなるし、気分の悪い思いをしながら暮らしたくはないでしょう?」
「それはそうだけど」
「男の人と違って女の場合は、ご近所のこと一つにしてもそれなりに気を遣うんです」
「へー、そういうものか。知らなかった」
 今までご近所付き合いなどということを意識することもなく過ごしてきた弓彦は、改めて普通に生活するということが、どういうことであるかということに思い至って、そのことに新鮮な驚きを感じると共に、満ち足りたものが腹の底から芽を出しかかるのを興味深く見守り続けたのだった。

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