金曜日   仕組み小説第二部「再出発」
3 P18 平成23年6月3日(金)

 彼が第一番に探したのは心理学の書物だった。ということは彼は自分が精神に異常をきたしたと考えたからで、それが健全な物の考え方だろうと思えたからだった。彼は大学時代にアイススケートで転倒し、後頭部を強打して昏倒したことがあり、そうした事故は数年後に異常をきたすことがある、ということを心理学の授業で聞いていた。心理学の資料には、確かに彼の経験と同じような異常な症例が取り上げてあった。しかしそうした病理学的な解釈は、彼の感覚になじまなかった。
 たとえ異常な経験をしたことが事実であるとしても、そしてその体験を通して自分が変貌してしまっているとしても、自分が精神病患者であると判断することは、彼にはできなかった。そのため彼は別の資料を探し始めたのだが、それが禅に向かっていったのは、やはり哲の思想、あるいは手記の影響があってのことだったろう。弓彦は宗教が嫌いだったし、神仏を必ずしも認めてはいなかった。しかし、高校時代から始まった闇への精神の歪みは、仙人へのあこがれを呼び覚ますという矛盾した働きをするものでもあった。
 神仏を否定しながら仙人を認めるという感覚は、自分でも理解できない矛盾した現象だった。彼が禅に興味を抱いたのは、禅宗が仏教という、彼が受け入れたくない宗教領域にあるものではあっても、それが神仏を説かないものだったからである。神仏の世界は異次元を設定しないと存在しえない領域であって、無神論者であった彼には、まだ受け入れることのできない部分だった。紀子には有神的な立場で対応していたが、それは彼に仙人への不可解なあこがれがあったからで、そこらあたりから禅的な哲の解釈をしていたのだった。
 哲の思想は無を語るもので、神仏を語ってはいなかった。そこに弓彦は同調していたわけであって、必ずしも神仏の存在する異次元の世界を受け入れていたわけではなかった。しかし、それならなぜ仙人という異次元的な存在を認めることができるのか、そこらあたりのことは自分でもよくわからなかった。ただ仙人に対するあこがれは相当強いものであり、高校時代に読んだ中国の神仙思想を否定することはどうしてもできなかった。それは仙人が神仏ではなく人間だったからかもしれない。
 哲の禅的な思想と弓彦の感覚の違いはそこらあたりからきていたのだろうが、弓彦はとりあえず哲の手記を受け入れる姿勢で何度も読み直してみた。そこから国会図書館へ出〜

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