金曜日   仕組み小説第二部「再出発」
8 P69 平成24年6月22日(金)

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という大作がゴーガンにはあるが、その絵を見ているときそのことが起こったのである。その絵は娘を亡くして深い悲しみに陥った彼が、彼女を悼んで描いたものとされている。それはそれでいいのであるが、弓彦はそこにゴーガンがタヒチに移り住むことになった神秘的な要因を感じたのである。ただの南洋の楽園主義などというものとは違う、もっと人種の根幹部分に触れるもののように感じられたのである。
 ゴーガンは西洋人とタヒチの原住民に人種的に同種のものを感じていたのではあるまいか。そこに問題の核心があるように思われる。ゴーガンが描くタヒチの女は土色ではあるが、弓彦には赤いものが感じられる。そして彼の晩年の絵には、その女たちが西洋の女のように描かれているのである。そこに両者の同一性を表現したのだろうが、彼はそのことの本質を知っていたのだろうか?キリスト教会と争ったこともあるということなので、もしかしたらそうした神秘的な領域で対立したのかもしれないが、そのことはともかく弓彦はそこに赤人の思いを感じたのである。
 南洋にあったと言われるムー大陸には、五色人がいたとされている。黒白黄赤青の五色人のことである。ゴーガンの描くタヒチの女は黒くはなくて赤い。それは赤人の流れをくんでいるからではあるまいか? その赤人と同じものを西洋人に見ていたゴーガンは、ラップランドの赤い人種を思い描いていたのかもしれない。白い西洋人はときに赤く見える。そこにゴーガンは何かを感じていたに違いないのである。それが何であるかは別として。
 そのことがきっかけになって弓彦の感覚に変化が起こった。そこから彼の新しい人生が始まることになっていくのであるが、そのときはまだそれが光の体験に繋がっているとは、考えられもしなかった。未知の領域へと扉が開けていく感覚としては、ほんのりとぼけたものでしかなかったからである。

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