金曜日   仕組み小説第二部「再出発」
8 P68 平成24年6月15日(金)

「行きたいけどね。まだ無理だ」
「そう。私は近々フランスへ行くわよ、休暇を取って。休みをくれなければ店は止めるかもしれない」
「もうそこまで。ずいぶん早いね」
「長かったから。やっと後遺症を克服することができた。あなたのおかげ。でもどうしてあなたなのかなぁ。あなたが行かないのなら世界旅行にしようかな。切り替えなくちゃ」
「命の洗濯か。人生のやり直しだ。まだ間に合うよ」
「だといいけど」
 フランスのシャンソン歌手は、パリに来ればまだ間に合うと歌っていた。葉子は皮肉な笑みを浮かべてその歌に聞き入った。彼女の頭にはもう次の人生への夢が花開いているようだった。弓彦はそれを眺めながら、共に生きられない寂しさを感じていた。
 それから間もなくして葉子はフランスへ旅立って行った。弓彦は外国旅行の代わりに古美術の中に何かを求めて岩間商店へ出掛け、岩間家のナターリエやヤンたちと過ごすことで、欠けた何かを埋めようとし続けた。
 その頃ナターリエはフランス製のゴーガンの豪華な特製美術本の修復の仕事をしていたが、破れた表紙から外された分厚い中味が机の上に置いてあったので、弓彦はそれを借りて眺め始めた。年代を追って絵を眺めているうちに、彼は妙な感覚にとらわれ始めた。
 後期のゴーガンは西洋絵画を捨ててタヒチに移り住み、南洋の女性を描き続けていったが、その行為に関しては楽園指向とか神秘主義といった評価がなされている。それはそれでいいのであるが、問題はその神秘主義の内容であった。日本画を中心に特殊な立場からの感想文を書いていた弓彦は、そこらあたりのくわしいことまでまだ調べてはいなかったが、日本画で感じられる何かが西洋画にもあることには気がついていた。ときどき西洋絵画展にも足を運んでいたので、それなりの観点はできつつあったが、そのときかなりはっきりと日本画と同種の感覚が現れてきたのだった。

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