月〜金曜日   短編小説「ネヴァ川のほとりで」
P2 平成23年8月22日(火)〜

 モスクワからサンクトペテルブルグへ向かう列車の中でのことであった。二人は日本語で会話をしていたのであるが、アンナは突っ込んだ会話にはほとんど乗ってはこなかった。初めはそれがどういうことかわからなかったのだけれども、どうやら日本語だからとはいえ安全ではないことが原因らしいことがわかってきた。『マリアみたいなロシアの女の子だっているんだからなあ』
 三剣はアンナのことを日本でいるときの名で呼んでいた。彼女が本名を出すことを嫌ったからだった。
「ずいぶん前のことだけど、日本の商社員がモスクワの大通りを日本の同僚と話しながら歩いていたときのこと、前を体格のいい御婦人が歩いていたんだそうな。商社員は何の気なしに「大きなケツだなあ」と感嘆するように日本語で言ったらしい。すると、どうなったと思う?」
「さあ」とアンナはムッとした顔で言った。
「『余計なお世話よ』と御婦人が振り返りざまに日本語で怒ったんだそうだ。商社員は土下座してお詫びをしたんだって」
「当然でしょ」
 アンナはそっけなく言っただけだった。並んで座っていて会話もしないで黙りこくっていても気づまりだし、彼女が日本語のトレーニングをしたがっていることはわかっていた。だから日本語で何か話したいと思って彼から話題を切り出していったのだった。彼女はプロのガイドではないわけで、観光旅行用の知識を備蓄しているわけでもない。まだ若いし、自分の生まれたモスクワ周辺で彼と行動することには同意しなかった。だから彼は自分が興味を持っていたサンクトペテルブルグのネヴァ川を見にいくことにしたのだった。
 もっとも彼女が口を開かないのは周囲に人がいるからで、彼女自身はそれほど話し嫌いな女の子ではなかった。要するに彼女は自分の正体を知られたくなかったのだろう。当然のことではあるけれども、彼としては高い案内料を払うことになるわけだし、彼には彼なりの彼女に対する思いがあった。だから彼女の立場ばかりを気遣って、窮屈な状態で辛抱していたくはなかった。
「君はトルストイとドストエフスキーとどっちが好き?」
「どちらもあまり好きじゃない」
「ゴーリキーは?」
「古い作家ばかりね、ロシアの古典文学ならチェーホフの方がいい」
「ヘエー、そうなんだ」
「驚いたみたいね、どうして?」
「崩壊してもテクノクラートはテクノクラートということかな。こんな話はまずいの?」
「なんでサンクトペテルブルグへ行くの? ネヴァ川を見たいと言ってたけど、あなたはドストエフスキー派?」
「よくわかるね」
「当然のことでしょう」
 やっとアンナは話し始めたが、それは彼女が文学にかなり通じていたからではないかと思われた。堕ちた身とはいえ、彼女が立ち直ろうとしているのは見え見えだったし、もしかしたら詩とか小説を書いているのかもしれなかった。そうした領域なら、彼女も変な目で見られることもないわけで、それで彼の話に乗ってきたのかもしれなかった。
「ドストエフスキーはミタマが開いていた。知っていた?」
「知らない。トルストイは?」
「開いていない」
「チェーホフは?」
「開いていない」

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