月〜金曜日   短編小説「ボクサーの卵と女」
P1 平成23年4月27日(水)〜

 バンコク市の裏通りを歩いていたときのことであった。華(はな)は窓の開け放たれたボクシングジムの前を通りかかって足を止めた。若いボクサーが練習試合をしていたからだった。彼女はボクシングにさほどの興味を持っていたわけではなかったが、ときどきテレビで世界選手権試合を見たりすることはあった。その程度の関心しかなかったけれども、練習試合ではあれ、目の前で若い男同志が打ち合う生々しさは、テレビ観戦とはかなり違うスリルがあったので、しばらく立ち止まって見物し続けた。
 試合は違うジムとの練習試合のようだったが、リングの周りにはセコンドや観衆もいて、それなりに本式の試合にはなっていた。選手は二人ともまだ若く、高校の対抗試合のようにも見えたが、高校のクラブ活動にしては観戦者の感じが違っていた。それはやはりプロの選手を養成しているジム同志の対抗試合としか言いようのない雰囲気があった。
 二人は高校生くらいの年令だったが、上級生と下級生くらいの差があって、それが体格や顔つきにも現れていた。上級生は体格もがっちりしていて表情にも大人びた緊張感があったが、下級生の方は細身でいくらか弱々しく、表情もまだ子供っぽくて甘さが残っていた。そうした外見だけから見ると、明らかに実力の違いがあって、勝負は初めから見えているように思われた。しかし両者はあまり激しい打ち合いをしてはおらず、もちろんどちらが真に強いのかはわからなかった。
 華が見ている間に一ラウンドが終ったが、それが何回目かはわからなかったし、何回制の試合をしているのかもわからなかった。両者ともヘッドギアを付けていたので、ただのスパーリングに過ぎなかったかもしれないし、本式の練習試合だったのかもしれない。観戦者は二手に分かれていて、合わせて三十人ほどいたが、開いた窓の目の前のソファーに坐って、試合を見ている若い男がいた。最初は頭と背中しか見えなかったその若い男が、一ラウンド終ったところで振り向いて華を見た。
 若い男は試合をしている選手と同年代だったが、素晴らしく美しい顔をしていた。三十才を過ぎたばかりの華がゾクッとするほど目鼻立ちがすっきりしていて、日本人と同型のタイ人ではあったが、現地系にはない美しさがあった。白系との混血ということなのだろうか、ほとんど見たことがないような種類の美しさだった。そしてその顔は白黄色ではあったが、ボクシングをするようなタイプではなく、どちらかと言えば上流階級の人間を感じさせる雰囲気があった。
 次のラウンドが始まったため、華はリング上の二人の選手の動きに視線を移し、目の前の若い男のことは忘れてしまった。そのラウンドに入ってから、それまで動きの少なかった選手に変化が現れた。年上の方の選手がジレてきたような感じで仕掛け始めたからだった。左ジャブから右のストレートがかなり強烈に、まだあどけなさの残っている年下の選手の顎に入る。すかさず相手もパンチを返して反撃するだけの強さはあって、一方的に試合が流れていくということはなかった。しかし、仕掛けるのはいつも年上のたくましい顔付きをした選手で、背は高いが細身の若い選手は防戦するだけだった。そして、そのラウンドは終った。
 ラウンドが終ると目の前の若い男がまた振り向いて華を見た。立ち去らない華が気になるのか、一般人に見られたくないのか、華にはよくわからなかったが、窓を閉められるわけでもなく、追い立てられるわけでもないので、しきりに振り返り始めた若い男を無視して、リングのあるジムの中を眺めていた。ジムの中はさほど広くはなく、観衆がリングサイドを取り巻いている形になっていたので、ボクシングジムらしい道具類もほとんど目につかないぐらいで、見える範囲内ではさほど珍しいものには見えなかった。
 ジムの中にいる者は、窓際の若い男以外は誰一人華を気にする者はおらず、二人の選手にすべての関心が集まっているようだった。そうした中で窓際の若い男だけが変にソワソワし始めて、次のラウンドが始まったにもかかわらず、リングに集中する感じが薄れているのがわかるほどになっていた。試合の流れを見極めてしまって、関心が華の方に移ってしまったかのようだった。華は試合をじっくり見たかったのだけれども、変に窓際の若い男が彼女を気にするので、次第に試合からその若い男の方に関心が向かうようになり始めた。

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