金曜日   仕組み小説第二部「再出発」
4 P26 平成23年7月29日(金)

〜だったか、悪いことだったかについては、簡単に結論は出せなかった。その方が世間で生きていくには有利だったからである。しかし紀子の方は、彼のそうした特殊な感覚が薄れることを残念がっていた。かといってそれがなくては困るというようでもなかった。
 日曜日になると紀子は朝から店にやって来て、一日中弓彦と過ごすのが習慣になっていった。その結果彼は彼女の思いがけない過去を知ることになった。彼女は父親の強い意向で、囲碁のプロへの道を歩まされていたのだという。小学生の頃より日本棋院の院生として厳しく育てられていたが、数の少ない女流や男に劣る職業的な不満から、結局大学への道に切り替える決意をして、厳しい父親と争って思いをとげたということであった。そのきっかけになったのは、和算の古文書を見たことがきっかけだったと言って、彼女は江戸時代に円周率を十一桁まで出していた関孝和のことをくわしく語り始める、といった具合であった。

  4

 紀子との付き合いが深くなっていくにつれて、小説に対する関心が薄れていくことに弓彦は気がついた。最初は光の体験によるものであると解釈していたけれども、必ずしもそうではないらしかった。書画骨董との付き合いの方に比重が移ったことは確かで、そのことが原因の一つであることは当然であるとしても、それにしては納得のいかない理由もないではなかった。彼が大学をやめてまで取り組んだ小説家への道は、相当大きな犠牲を払って選ばれた道だった。少なくとも三十才までの十年間は絶対に諦めてはならない課題だったし、家族との間に交わされた暗黙の約束事でもあったからだった。
 初めはそれほどのこととは思われず、さほど気にもかけてはいなかったが、日がたつにつれて、創作どころか小説を読む意欲も失われてしまうと、さすがに彼も戸惑わないではいられなかった。書画骨董を扱うことだけで生きていけるようには思えなかったからだった。いかに紀子という女性があって、彼女との生活への道が開けてくるとしても、それだけで彼の精神が満たされるかどうかについては、自信が持てなかったからだった。要するに小説は、紀子とは取り替えられない何かを〜

back next
e-mail:ksnd@mail.ksnd.co.jp
Copyright © 2011 Kousendou,Inc. All right reserved.